彼女の福音
拾肆 ― 覚悟 ―
―――それは懐かしい思い出の一シーン。
舞台は僕の部屋。季節は初秋。
僕と岡崎は、小さなテレビと、それに繋がれているビデオデッキの前に座っていた。
「ほんとにつけるよ?」
岡崎は目を合わさずに小さく頷いた。そして無理に笑顔を作って、「しつこいって」と手を振った。僕はため息を吐くと、ビデオを巻き戻し、再生した。
「... I bite the bullet in order to prevent the loneliness. If we hadn’t known the row of cherry trees would have gone...」
そこには見慣れた友人だった女生徒が、僕らには解らない言語でマイクに向かってスピーチをしている姿が映されていた。
「何語?」
僕は苦笑いをして呟いた。
「桜のことを話してるみたいだな……」
岡崎にはしかし、彼女の言っている言葉が少し解ったようだった。何でだ、と思ったけど、すぐに納得してしまう。岡崎は彼女と別れた後、少しずつ変わっていった。僕と一緒に昼頃登校することもなくなったし、ちょくちょく宿題を提出するところも見掛けている。そう、岡崎が頑張っていた事は、いつも一緒で馬鹿をしていた僕がよく知っていた。
それでも。
それでも彼女は遠い存在で、追いつこうと思うことすら許されなくて、岡崎が一歩進んでいる間に十歩は先に行ってしまっている存在だった。
「ねえ岡崎、何か飲む?」
「いや、いい」
「じゃあ僕、ちょっと外で何か買ってくるよ」
そう言って僕は部屋を出た。そして、寮の近くにある自動販売機で缶コーヒーを買って部屋に戻った。
行きがけにちゃんと閉めてなかったんだろう、僕が戻った時、ドアは少し開いていた。そしてその先の光景のせいで、僕は部屋の中に入れなかった。
岡崎は、テレビにかじりつくようにして彼女の姿を見つめていた。そして、ふとその乾いた表情をした顔を、何かが滴り落ちた。
しばらくして、低く押し殺した嗚咽が聞こえてきた。それが止むのを待って入ってきた僕に、岡崎は問いかけた。
「なあ、人を好きになるのって、何で辛いんだろうな」
「何でって……本気だからじゃないの?」
「本気だからか……ま、そうかもな」
「人を好きになるってさ、そいつも含めてみんな幸せにしようってことだからね。並大抵の覚悟じゃないと思うな」
「覚悟、か。そうかもな」
岡崎は小さく笑った。
―――岡崎が彼女 − 坂上智代 − とまた一緒になれたと聞いたのは、それから半年も経っての話だった。
ブザーを鳴らす。奥で足音がして、ドア越しに誰かの気配を感じる。僕は飛びきりの笑顔を作って親指を立てた。
「やっほー。遊びに来たぜ」
しばらくして遠ざかる足音が聞こえた。
「って無視って少しひどすぎませんかねぇアンタ!」
「うるさいな、春原科春原目春原のくせに」
「僕は動物かよっ!」
「いや、それですらないから。知能的に」
「それどう考えても最大級の侮辱ですよねぇ!??」
「で、何の用だよ?」
岡崎が睨んできた。それでも話を聞いてくれるお前は親友だよ!
「いや別に。智代ちゃんに会いに来ただけだよ」
「あァ!?」
その瞬間、世界が著しく回り、反転して暗くなり、気づけば僕は岡崎の家の玄関で、壁に叩きつけられたまま胸倉を掴まれていた。鼻面には尖ったプラスドライバーが突きつけられていた。
「てめえ……俺の智代に会いに来ただぁ?上等だコラ、今すぐこの場でなますにして、智代の大好きな桜並木の肥料にしてやろうか、あァ!?」
「ひ、ひぃいいいいいいいいいいい」
「で、何の用だよ?」
「いやだからさっきも言ったように岡崎と智代ちゃんに会いに来たんだって……いやまじで話があるから来たんだってばその電動ドリル回すのやめて下さいってば!!」
岡崎が狂戦士化する一歩手前で、僕は怒鳴った。ちなみに智代ちゃんは今買い物に出かけているそうだ。苗字が坂上から岡崎に変わっても智代ちゃんは相変らずきれいだから、会う度に心が洗われる気分になるけど、そんなことを言おうものなら目の前の電気工に川に投げ入れられた後で高圧電線に金属クリップで干されそうになるからやめておく。
「話?言っとくが金ならない」
「いや、そうじゃなくて」
「勉強も教えてやれないぞ?いくら智代でも、できることとできないことがあってな?お前を人並みにするのはちと無理っぽい」
「じゃなくてって、何気にひどいっすね、アンタ!」
「はいはい。じゃあヘタレロボ二十八号は何の話をしに来たんだ」
「……杏のことなんだけど」
そう。僕は今、高校時代からの友人である藤林杏について悩んでいた。
「お前何やったんだよ?」
「いや何も」
「言っとくが杏と戦うために智代に助っ人頼むってのは却下な」
「いやそうじゃなくてさ。むしろ何かやられてるって感じで……」
ことの起りは一ヶ月前のある週末。芽衣が家に遊びに来ないと思ったら、駅をはさんで杏が来ていろいろと飯を作ったり掃除をしたりした。まあその時に僕の秘蔵のお宝が見つかって僕の顔にぶち当たったり、昼飯を食べようとすると風子がいきなり現れてきて不気味な色のクリームを使ったお菓子を見せつけたため食欲がなくなったりと、いろいろあったけど、一人で過ごすよりやっぱり友達が遊びに来てくれた方が断然楽しかったから、また来てくれると言ってくれた時は喜んだ。でも……
『起きて陽平。ほら、起きなさい……起きなさいって言ってるでしょっ!』
『ぶがふぇまっ!』
次の週の土曜日、安眠をむさぼっている僕にアンデルセン童話全集が直撃。こんな事をするのは世界広しと言えども杏しかいない。
『朝っぱらから何しますかねぇアンタ!!』
『何よ、起きてこないからこれはあたしへの「本を投げてください」コールかと思ったじゃない。それより、朝ごはんできてるわよ?』
『……はぁ?』
『だから朝ごはん。何、寝ぼけてるんだったらまた目覚ましの本をお見舞いするけど?』
『ひ、ひぃいいいいいいいいいいいいいい?!』
とまあしょっぱなから杏のペース杏のターンだったわけで。しかもそれが日曜日も続き、更に次の週もそうなったわけで。そしてそんな生活が二週間ほど続いたわけで。
そこまで来ると、さすがの僕も笑ってばかりはいられない。何が起こってるんだ?と疑問に思うし、これには何か裏がある、と疑ってしまったりもする。そこで杏について僕と同じほど知っている岡崎と智代ちゃんに助言を請いに来たというわけだ。
「一つ俺から聞いていいか?」
「ん?何?」
「それで、式はいつなんだ?」
ぶっ
「アンタ何変なことを真顔で言ってるんですかねえ!?」
「俺達に結婚の知らせをしに来たんじゃないのか?」
「誰もそんなこと言ってないよっ!つーかそこまで誰も行ってないよっ!」
「照れるな照れるな。結婚するんだったら、俺がスピーチ書いてやろう。もう秘密大暴露大会ってな感じで」
「それって結婚した途端に離婚になりそうなんですがねぇっ!あーもう!何考えてるんだよアンタは!!」
「……とまあ、冗談は置いといて」
冗談かよ。ま、よかった。
岡崎が真剣な顔になった。
「お前、気付いてるんじゃないか」
「何をだよ」
「何で杏がこんなことしてるのかぐらい、想像つくだろ?」
「……さあね」
ま、大体予想はできる、気がする。しかしそれは僕の妄想かもしれない。どだい、少しばかり無理のある話だ。当事者はあくまでもあの杏であり、この僕なのだ。
「お前こういう時は普通鋭いんだけどなぁ……」
「こういう時ってどういう時だよ?」
「杏絡みだったりする時」
……まさか。
「まあ俺と智代に関しても、時々鋭いけどな」
「それってつまり、古い友達に関しては、って意味じゃん。特に杏に関して鋭いってわけじゃないと思うな」
「そういうもんか?とにかく」
咳をして居住まいを正す岡崎。
「仮の話しような。仮にだぞ、仮に杏がお前に告白したら、どうするんだ?」
「……はっ。しょうがないから岡崎に付き合うけど、僕がもしそんな話持ち込まれたら、うんって簡単には言わないと思うぜ?」
「何でだよ?お前好きな奴でもいるのか?」
「いやいないけどさ。ほらずっと前に岡崎に言ったじゃん。人を好きになるってのは、相当な覚悟がいるって話。僕にはそんな覚悟、ないしね」
「このヘタレが」
「はいはい」
まったく、とため息を漏らして岡崎は腕を組んだ。そしてぽつりと呟いた。
「じゃあ、杏の覚悟ってどれくらいのもんだろうな」
「へ?」
「もし人を好きになるのにそんなに覚悟必要なら、杏の覚悟って、とんでもなくでかいんじゃないか」
「……そうかもね」
「そこらへん酌んでやれよ。そこまでしてお前のこと好きになってくれる奴、いないだろ?お前だって杏のこと、嫌いってわけでもないんだし」
沈黙。
確かに、僕は杏が嫌いってわけじゃない。すごくいい友達だし、客観的に見れば(あくまでも客観的に見れば)可愛い女の子で、未だに恋人が一人もいないのは少し変なんじゃないかと思う。
そんな彼女が僕の傍にいてくれるって言ってくれたら。
好きだって言ってくれたら。
何が何でも一緒にいたいって想ってくれたら。
僕は一体どうするだろう?
「何てね」
「あ?」
「仮定の話だろ、岡崎。そんなに深く考える必要ないじゃん」
「いや、まあな。でも答えぐらい聞かせてくれてもいいだろ?」
「答えねえ……ま、一応付き合うって形で」
「一応ってお前……」
「で、まあ恐らく愛想尽かされるってのがオチだと思われ」
「ま、そうなるな」
「それにあの性格だしね……凶暴だしすぐ怒るし、理不尽なこと言うし僕のことこき使うし」
「そこが好きなんだろ」
「だから好きとかそんなこと一っ言も言ってないよ!!僕はMですかっ!!」
そんな時、玄関の扉が開いた。
「ただいま……朋也、誰か来てるのか?」
「やっほぉおおい!智代ちゃああああん!!」
「な、誰だお前は!!」
青い閃光が見えた。
気付けば宙を舞っていて、僕の進行方向には黒いオーラを放つ岡崎朋也氏(27)がモンキーレンチを握って待ち受けていた。
コンボが繋がった。僕の脊椎が外れた。
結局ヒットカウンターが三ケタに行くまで、僕は岡崎夫妻のリフティングラリーに付き合わされた。
「ま、頑張れよ」
無責任に笑いながら岡崎が別れ際に言った。
「お幸せにな春原」
なぜか謎めいた笑みを浮かべて智代ちゃんが言った。あれ、もしかして僕、自ら敵陣に自分のカードさらけ出しに行った感じ?もしかするとこの二人グルだったりします?四面創価学会?
「……あーもーどーにでもなれだよ」
結局僕は思考を放棄した。どうせ僕が何かをやってるわけじゃないんだから、結果としては歪でも何とか形になるんじゃないかな、と逃げる。
でも。
でも、もしも本当に杏と僕がつき合うことになったら。
一体、本当にどうなるんだろうね?